越谷市の歴史

越谷の原点、とは

ではそんな越谷市の歴史を紐解いていきましょう。ここでは詳しく古代から現代まで簡単に説明していきますので、順番に見ていくことにしましょう。

古代の越谷

古代の越谷を語るには今から約5000年前にまで遡ります、縄文時代の高貴の頃には、越谷を含んだ10メートル近くの等高線までの地が地上にはなく、海の中にあったのです。それから2000年後が過ぎた後、地球の気温が現在観測されているのと同じくらいの気温に下がったことで、海が交代して河川によって運ばれた土砂によって沖積地が形成され、人々はここに住むように集まり始めたのです。そのため、越谷に始めて人が住んでいたということを観測できたのは古墳後期から古代にかけてと推測されている。のです

中世の越谷

中世の頃になると、平安末期から鎌倉期に掛けて武士が台頭し始めたことによって、新田開発が進められていました。越谷においては武蔵七党のうち野与党の一族に古志賀谷二郎為基、大相模二郎などといった武士たちが登場してきます。

この頃には生前に死後の冥福を願って建てられた石の塔婆が数多く建立されたといわれており、これを『板碑』という風に呼ばれています。越谷においてはこの板碑は建長元年銘のものを始めとした200基近くが確認されており、党人人々の生活の一端をうかがうことの出来る重要な史料となっているのです。

近世の越谷

この頃になると徳川家康が天下統一を果たして江戸幕府が誕生し、各地では家康の下であちこちが開発や改修などが行われるようになった。その煽りを受けるように越谷にも政策の風が吹くことになります。

その始まりとしては慶長7年のこと、奥州街道に伝馬制が敷かれたことで。越谷宿が取り立てられたことになり、宿場は公用荷人運輸の中継所として設けられました。この頃から街道沿いには新しい家が造成されることになり、天保14年には、戸数が1000件を超え、人口も4600人を超えるようになり、旅籠屋が本陣・脇本陣を含めて57件にも及ぶことになるのでした

また家康直々に民情の視察を兼ねた鷹狩りが行なわれるようになって各地を訪れるようになり、その過程で家康の別荘となる御殿が造られる事となり、その内の一軒である御茶屋御殿が慶長9年に越谷に移されることとなった。。

近代の越谷

この頃になると現在の越谷の域となる2町8カ村となり、さらには学校や郵便所、町役場などの人々の生活に必要な施設の建造が進められるようになった。また、明治26年には千住・粕壁間に千住馬車鉄道が開通することになるなど、交通としての機能も徐々に整理されることとなった。こうしたこともあり、越谷朝の貨物輸送には、綾瀬川などから船で運んでいたが、大正9年には越谷町に停車場が開設されてからは鉄道輸送に切り替えられるのでした。

昭和時期の越谷

怒涛の大戦時代を駆け抜けた日本の中で越谷もまた歴史の進化を遂げることになりました。まずは昭和28年の頃、町村合併側臣法が施行されたことで、町村合併の機運が高まっていく中で、ようやく2町8カ村が合併したことで越谷町が誕生することとなりました。その後街役場新潮社が越谷一丁目に完成し、相か待ちの伊原、麦塚、上屋の越谷町の編入を経て、昭和33年11月に市制が施行されたことで人工4万8318人、現在の越谷市が誕生したのだった。

この当時の民衆の暮らしから見ても戦後を感じさせないとまで分権に記されており、日本経済が高度成長へと進みだしていることを示唆しています。越谷市も人口が5万人を突破したことで、地下鉄日比谷線が北越谷駅まで相互乗り換え、首都圏のベッドタウンとして、その後に続いていく人口の急増時代を向かえることになるのです。

このような動きから人口が増加の一途を辿ることになった越谷も、昭和42年には人口が10万人を超えることとなる。都市化の進展で街の様子も大幅に移り変わり、人口の急増から、街を活性化させる半面で、様々な問題を抱えるようになるといった布の面が浮上することになった。そういった問題を解決するための話し合いが続けられていく中でも人口は増え続け、そうしたサイクルに追われながらの街づくりの時代が到来することになるのでした。

昭和50年代に入ると、住民の医療や福祉に重点が置かれるようになり、重度心身障害者の医療費の無料化や看護専門学校の開校、私立病院の開院が相次いで増えていくことになる。相した働きも人口が増えていくことに影響し、遂に人口も昭和51年には20万人が突破することになるのだった。また市制施行20周年となる昭和53年には『越谷市民であることに誇りと責任を持って、水と緑と太陽に恵まれた豊かな街を築くため限りない願いを込めて』という市民憲章が制定されるのだった。昭和57年にはせんげん台駅南陸橋が開通したことで、東西の往来が便利になるなどの動きが見られるようになるのだった。

この頃になると日本経済が安定成長に移行した頃から人口の増加もようやく落ち着くを見せ始め、人々にはスポーツや文化活動などの健康的で余暇を楽しむ生活が求められるようになり、各施設の整備や各種団体の育成等の政策が進められることになる。昭和60年になると人口も25万人を突破することになり、快適で便利な生活が営めるように、道路や橋、公園、鉄道の高架複々線化事業など都市基盤の整備が進行する。そして昭和最後となる63年には市制施行30周年を記念してシラコバトが、この年に市の鳥に制定されることになるのだった。

平成の越谷

平成になると東武鉄道伊勢崎線の連続立体交差事業が着工されることとなり、平成3年には近隣公園として、全国的には初となる本格的日本庭園『花田苑』、平成5年には『こしがや能楽堂』が開館することになるのだった。

この頃は地方分権の進展が影響して、個性的で魅力的な街づくりが求めれられるようになりました。人口増加も緩やかになったことで都市施設が充実し始め、成長する街から成熟する街への変化もおこしていく中で、安心して健やかに暮らすことのできる街、また自然と共生する緑豊かな街というものが求められるようになった。

人口も兵営8年には30万人が突破することとなり、鉄道の高架複々線も進行した事で利便性が少しずつ増えていくことになった。また市制施行40周年記念式典が執り行われ、市のシンボルマークと子ども憲章が発表され、その翌年には福祉のまちの実現を目指して福祉憲章を制定することになる。この頃には市民と行政との共同による街づくりを進めるために、第3次越谷市総合振興計画が平成12年に策定されることとなった。

また近年では越谷レイクタウンがまち開きして、21世紀にふさわしい親水文化創造都市が着々と形成されていくこととなっているのでした。これが現在まで続く越谷の歴史という風になります。

越谷の由来

市名となっている越谷とは、以前は越ヶ谷と表記されていたが、これは『越の谷』という意味であり、『こし』とは『山地は丘陵地の麓付近』の意であり、『谷』は『低地』の意ではないかといわれています。これは『大宮台地の麓にある低地』を指す地名だとの推測がたてられている。

ではここから越ヶ谷の『ヶ』が抜けることとなったのは合併による越谷町との区別をするために抜かれたことが由来となっています。つまり現在まで『越ヶ谷』という表記になっているのは越谷市の中央部の地名は、現在『越谷市越ヶ谷』となっており、それ以外の越谷と地名が付くのは、越谷長成立以降にできた地名となっている。但し、『南越谷』・『北越谷』・『東越谷』などには元々『ヶ』は入らない。